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庭園の地割
1999/11/04 Last renewal 2001/08/01

 敷地に城郭や建物などの平面プランを区画割付することを地割すると言われていたが、庭園の場合では庭全体とその池泉との関係について地割と称することが多い。単に地割という場合には池の地割、つまり池の形をいう場合がほとんどである。庭園の地割の変遷もまたこの意味で、主として池泉を中心とした「地割の変遷」のことになる。池泉や流れの形といった地割、滝石組や橋石組の組方、須弥山(しゅみせん)や蓬棄山(ほうらいさん)などの石組手法など各時代の特徴があり、おおよそ年代を追って辿ることができる。この基礎的な研究者の中心人物が、作庭家でもあった重森三玲である。 重森三玲作東福寺方丈庭園へ

 以下の項目別で解説しています。
 現在のところ文章のみで画像等はありません。
 各時代ごとの略図を載せる予定をしています。← 準備中

 上古時代飛鳥、奈良時代平安時代鎌倉・南北朝時代室町時代桃山時代江戸時代初期江戸時代中・末期明治・大正時代項目のTOPへ

 飛鳥時代に庭園文化が移入される以前にも、日本にはすでに庭園文化的な要素がいくつかあった。祭祀用の神池・神島としての池泉、あるいは磐座(いわくら)・磐境(いわさか)としての石組があり、居住地の防護用の水垣としての池泉などがあった。この祭祀用の池泉や石組から日本庭園が発生したわげではないが、池を掘り、島を造り、石を立てて神と崇める。こうした信仰は日本人の血のなかに本能的に潜んでいたいえる。移入された庭園文化を、日本独自の文化として発展させるうえで大きな力になったとして、重森三玲はこれを日本庭園の源流として認識するべきものであるとしている。 神池・神島は池そのもの、島そのものが神として崇拝の対象であるから、その形(地割)は神々の内容によって決定される。その代表的なものとして、海神である宗像の3女神を祭祀する大貞八幡薦神社神池(大分県中津市)を上げることができる。火炎のごとき形の池に3女神の徴としての3島が一直線上に配置されている。このように宗像系の神島は3鳥が一直線に配島される。同様に出雲系は4島が品文字形の組み含わせ、阿自岐神社(滋賀県大上郡)の朝鮮からの帰化人系の神島は多鳥形となっ
ている。こうした祭祀用としての神池・神島の景観が、後に移入された庭園のなかに融合され、発展していく基盤となるものであった。
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 この時代は庭園文化が移入されて、池泉に呉橋が架けられたり、須弥山が庭の中心として築造されると同時に、上古以来の神池・神島も、その移入文化の影響を受けて、庭園的要素が加えられるようになり、神島にも橋が架けられたりするようになる。この時代の池泉庭の遺跡として知られるものに、平城官の東院跡庭園(奈良市)があり、この庭は曲水的な護岸を有する曲池式という地割である。また一部分発掘されたことのある橘島官跡庭園(奈良県明日香村)は2段式の池泉で、大きな中島を有していた。中島に住宅があり、周りを池泉が取り囲んでいる。水垣式池泉が発達した池心式の池泉であったと思われる。この時代は次の平安時代と同様に曲水宴が盛んに行われているので、そのための曲水も数多く造られていたが、現存するものはなく平城宮東院跡にわずかにその痕跡が見られるのみである。

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 延暦13年(794)に、平安遷都と同時に神泉苑(京都市中京区)が築造され、毎年曲水宴や舟遊が行われた。この神泉苑の地割は奈良時代の様式を色濃く残しているが、東西に閣や釣台を設けられ、庭園と建物とが相互に一体となったものであった。池泉は寝殿の南正面に大きく凹字形に掘られ、洲浜形という日本の自然美を最も美しく抽象した手法を護岸に用い、東西には釣殿や泉殿が、そこに船を浮べて宴を催す。こうした舟遊をするには池泉は十分に広く、かつそれだけ水量が豊富でなければならなかった。したがって洛中においてこうした舟遊式の池泉庭のでぎる所は限られており、その大きさにおいても限度があった。この時代の洛中における理想的な庭園としての地割は、凹字型の池泉庭で、寝殿の北東に水源があり、東対屋の西庇の前を流れ、寝殿東の廻廊下を潜り、池泉の北東部に流入する。この流れはうねうねと曲がり、曲水宴の場ともなる。池泉の南西部に池尻があって、屋敷の南西部より邸外に流水する。こうした地割が家相的にも理想とされた。しかし実際には水源や敷地の関係によって、主殿の南正面に池泉ができるとは限らず、舟遊に十分な広さや水量がない場合が多い。このような制限された条件にあっては、観賞を主とした庭園にならざる負えなかった。そのため雄大な池泉庭を設けるために、洛外に出て、景勝の地を選び、山荘、離宮を営み、優雅な宴を繰りひろげることになる。嵯峨天皇の嵯峨院跡にある大沢池(京都市右京区)や白河天皇の鳥羽雄宮(京都市伏見区)がその例である。この時代の地割のもう一つの特徴は、平安後期に盛行した浄土式庭園で、浄土曼茶羅の構図を地割の基本としたもので、宇治市の平等院や平泉の毛越寺庭園(岩手県西磐井郡)がその例として残っている。七宝池を意味する大池の中心に大島を一島設けて南と北より反橋と平橋を架ける。池泉には蓮を、池泉の北方に阿弥陀堂が南面する。阿弥陀堂からは東西に翼楼や廻廊が伸びて、弥陀の世界が展開された。ここでは龍頭鶴首の舟遊はもちろんのこと中島に舞台を設けて、楽を奏し弥陀の世界への往生供養を行った。そこは極楽浄土の現出であり、その享受でもあった。宇治市の平等院、平泉の毛越寺や観自在王院跡(岩手県西磐井郡)はその代表的なものであるが、これらはいずれも、浄土曼荼羅の方形式の基本構図からは、やわらかく変形されている。庭園的景観を強く意識しており、毛越寺は、堂宇が一切焼失してしまって池泉だけとなった今でも、それを示している。

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 平安時代は公家を中心とした寝殿造が主流であったのに対して、この時代は武家を中心とした書院造が主流となった。庭園も大和絵的なおだやかなものから厳しい作風へと変わり、池泉も舟遊式から、散策する廻遊式となった。規模も小さいものが多くなる。西芳寺(京都市西京区)の池泉庭は平安時代からの過渡的な地割を有している。池泉は最も大和絵的な白砂の島を重ねるように並ぺ舟遊もでぎるだけの十分な広さがある。同時に池泉の周りを廻遊できるように景観の変化にも細かい作意が見られる。この廻遊路は石段を登り山腹に至る。そこには、豪壮な北宋山水画そのままの石組だけが展開する。これは平安時代の地割を残した池泉と並列して、鎌倉時代の厳しい石組が上下に二段式に構成されたもので、厳しい滝石組が池泉とは別個に枯山水として作造された。ところが天龍寺(京都市右京区)の池泉になると、池泉は小さくなり、池泉のなかに石組がなされている。地割は曲線の出島があり、全体に優雅な地形のものであるが、その処々には力強い石組がなされていて、平安的な要素と鎌倉的な要素の融合されたものとなっている。

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 この時代は、鎌倉時代の宋元画的な庭園がさらに発展して、山水画を観賞すると同じように庭園も観賞本位となり、水墨山水画が自然のなかの理想の世界を描いたのと同様で、庭園にも理想の世界を描象的に表現するようになった。池泉の規模はさらに小さくなり、座視観賞が主体になる。慈照寺銀閣(京都布左京区)の池泉庭は廻遊式ではあるが、基本的には数ケ所の視点からの座視観賞式として作庭されているもので、地割としては凹凸が多く、その構成は全体は水墨画的手法で石組され力強い池庭となっている。この慈照寺庭園は西芳寺池庭を範として作庭されたのであったが、そこには時代の相違が現われている。たとえば西芳寺の白砂の島は銀閣では白砂の銀沙灘(ぎんしゃだん)となって演出的にデフォルメされたものであった。常栄寺(山口市)の池庭は様式的には慈照寺の系に入るが、ここでは雪舟(せっしゅう)という優れた水墨画の画家が地上に絵を描くようにすべてを構成したという点で、この時代の最も埋想的な庭園として作庭されたといえる。地割は、立体的に現われ変化に富んだ壮大さに比較すると平凡な形であるが、これは鑑賞の視点から見えない部分は大胆に省略したもので、これにより視点からの表現内容を豊富に盛りこむことができ、遠近感をさらに深めることを行っている。この時代には、曲水宴として作られた曲池式の地割も見られるようになる。保国寺(西条市)、北畠神社(三重県)、旧秀隣寺(滋賀県高鳥郡)などがその例であるが、奈良時代などの曲池式とは異り、規模も小さく力強い石組で構成された曲池で、その凸凹は角張った地割となり、立体的な入り組みを観賞するように意匠されたものであった。

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 戦国時代は、下剋上の世界を戦い抜いた時代であり、庭園もまた荒々しいものとなった。池泉は再び大きくなり、池も深く廻遊式の庭が作られるようになる。この時代の地割の特徴に鶴島、亀島、蓬棄鳥などがあり、それらの島は豪快な石組がなされ、それぞれの島へは橋が架せられていた。鶴亀蓬莱などの島や石組は、桃山以前にも数多く見られる主題であったが、これに橋を架すようなったのは、この時代からである。一国一城の主となった彼らにとっての願いは、子孫の安泰と繁栄であり、そうした長寿延命の祈含は庭園のなかに持ちこまれた。桃山以前に扱われた蓬莱神仙島は、海上の彼方にあって、行き着くことのできない神の島であったが、天下を戦い取る彼らにとっては、蓬莱神仙島は橋さえ架ければ渡れるものとして扱われるようになった。室町時代の山水画風の庭園も作庭されていたが、それはさらに力強く、豪快な石組によって座視観賞に作庭されている。しかし、ここでも鶴亀蓬莱の思想は必ず挿入されていた。

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 社会体制が整い、安定した時代に入っても、いまだ桃山時代の気風をそのまま残す大名たちは競って大池泉庭園を築造した。それは権勢の誇示と同時に、休息地のでもあった。ここにはありとあらゆる様式千法が用いられ、舟遊式で同時に廻遊式となり、曲水もあれば大流水もあり、東屋や茶亭もあれば、田圃や畑、あるいは馬場や弓場や花園もあるというように、一種の総合園的なるものが盛行した。したがって地割としては各種各様なるものが壮大なスケールで展開された。この時代の作庭意欲は平安時代に勝るとも劣らないものである。水前寺成趣園(熊本市)、栗林園(高松市)、六義園(東京都文京区)などが、代表的なものである。江戸初期も終りに近づくと、各寺院などにも数多く作庭されるようになる。それらは規模も小さく、主として観賞式のもので、石組など弱くなりつつあるが、古典的様式が加味されており、見るぺき点が多い。細長い池泉の多い点が特徴である。

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 江戸中期は小寺院から一般住宅にまでもが作庭されるようになり、『庭造伝』なども出版されるほど、作庭熱が盛行した。専門の庭師による作庭が多くなり、それだけに型にはまる傾向が強くなっていく。江戸末期になると形式化はさらに強くなり、庭は本来が美しい世界であるという命題を忘れてしまったかのように、形だけのものとなる。池を掘り、石を組み、木を植えれば、庭だという考え方でいっこうに美しくない庭が多く作られることになった。この傾向は以後今日まで続いていると言える。

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 新興勢力によって、洋風庭園の影響を受けた自然主義的な、大規模な池泉庭が作られた。しかし風土を考慮しない単なる模倣的なものが多く、また完全な洋風庭園でもなく、和洋析衷式であったために、不自然さが目立っている。大正時代は造園ブームとなり、復古的な作庭も行われた。今日、室町時代や桃山時代、あるいは江戸時代の庭園と誤認されているものに、この時代の作品が多々あるのはこのためである。